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『中世人の花会(はなのえ)と茶会』根津美術館

根津美術館は、地下鉄の表参道駅の近くでひっそりと落ち着いた一画にある。

和を意識した二階建てで、長いエントランスの壁は竹が一面に使われている。敷地内には傾斜した地形を利用してつくられた回遊式の広い日本庭園もある。

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今日は、「中世人の花会(はなのえ)と茶会」と題され、とくに利休の時代に利用された茶道具や巻物などを中心とした展示だった。

茶碗などは、日本のもの、と勝手に思い込んでいたけれど、思いのほか、青磁など中国や朝鮮から渡来したものが多いことに気づかされた。油滴天目や雨漏茶碗など、その景色に特徴を持ち、「侘び」・「寂び」といった日本らしい感性に関連を持つ茶碗にしても、もとをたどると大陸に行き着くのだった。

f:id:alpha_c:20120624223346j:image:left中世のひとびとには、生老病死という人間にとっての基本事項が頭のどこかに常にあり、これが「信仰」という形をとってとくに鎌倉時代以降浸透していったことは間違いないと思われる。茶の湯は、さらに俗世間から少し距離をおいて、来世での「救い」ではなく、生きる上での見苦しさをできるだけ遠ざけ、所作など現世の美に昇華しようとする営みであったように思われる。これはいわゆる「華美」とは遠く隔たったものである。


物事は習慣化されないと身に付けることは難しいものだ。信仰の強いところは、毎日繰り返されることによりその人の血肉になるところだと思う。宗教の教義においてもそれが現実の生活に基礎をおき、しかも理の通ったものであればあるほど、人生を豊かにできる可能性を有している。一方では、教えを至上のものとし「主義」化してしまう危うさをも持っている。

茶の湯には、所作はあっても明確な教義はない。華やかさを遠ざけ、静かで簡素な空間で他者や自身に向き合う。主体は、あくまでも人であり、絶対的な存在はない。

と、企画展ではこんなことを考えさせられた。