バレエ『白鳥の湖』シュツットガルトバレエ団、東京文化会館

f:id:alpha_c:20120609231357j:image:leftシュツットガルト・バレエは2008年の公演以来4年ぶりの来日となる。前回は東京文化会館で『眠れる森の美女』を観たが、その舞台は今でも明瞭に記憶している。その後もバレエ公演を折に触れて見続けるきっかけとなったすばらしい舞台だった。


f:id:alpha_c:20120609231354j:image:left今回の『白鳥の湖』は、主役のオデット/オディールを踊る予定のマリア・アイシュヴァルトが、4日前の『じゃじゃ馬馴らし』東京公演後、痛めていた足の具合が悪化したため降板し、同じプリンシパルであるアンナ・オサチェンコがアンダースタディとして演じることとなった。また、ジークフリート王子もマライン・ラドメイカーからオサチェンコのパートナーであるエヴァン・マッキーに代わった。

この『白鳥の湖』は、振付・演出:ジョン・クランコ、装置・衣裳:ユルゲン・ローゼのものでこのバレエ団に伝統的に引き継がれている舞台となる。全体として抑えた色調で、例えば新国立劇場の同公演と比べ「鮮やかさ」には欠けるようだった。例えば第三幕では、中世らしさを舞台セットのみならず衣裳にも適用しており、「時代を再現する」ところに力を注いでいるように思われた。その反面、バレエの特徴である柔らかさや軽やかさは抑えられる形となる。

第一幕は、王子とそれを取り巻く人々の、心も浮き立つばかりの踊りが特徴的な幕であるが、ここはどちらかというと『ジゼル』の一幕のような農村的な舞台として仕立てているように見えた。コール・ド・バレエの踊りのテンポとフォーメーションが肝心な幕ではあるが、斉一性をあまり感じとることができなかった。また、この幕の白眉であるパ・ド・トロワがなく、第三幕や第四幕の音楽がこの幕に移植されてあったりと、われわれ日本の観客には少し「おや?」と感じる構成だったのではないかと思う。これが嬉しい驚きであればよいのだけれど、どちらかというと連続性に欠けるとともに、平板な構成に受け取られたのではないか。テンポに乗り切れず少し冗長感があった。

f:id:alpha_c:20120609231355j:image:left第二幕は、冒頭の湖の場面で張り子の白鳥が登場し、これは懐かしい演出だなあと。ただ、やはりクランコの演出は、伝統的なプティパ=イワノフ版にかなり手を加えており、とくにイワノフ振付のフォーメーションには抜本的に手を入れ、違うものに作り変えていた。

この幕はいわばオデットの舞台でもあるが、登場の時から、これはもしかして踊りこなせていないのでは、という印象があった。とくに見せ場のソロ・ヴァリエーションなど、音楽に乗り切れていず、柔らかさの表現ができていないようでもあった。

f:id:alpha_c:20120609231356j:image:left第三幕は、以前見た『眠れる森の美女』の第三幕をほうふつとさせるピロティ構造の舞台装置でユルゲン・ローゼの手によるものだ。さきに記したように中世さながらの衣裳に身を包んだ人々が囲むなか、「スペインの踊り」から始まるディベルティスマンが展開される。これも伝統的な演出とは大きく異なり、スペインの次はポーランド、そして通常カットされるロシアの踊りが入ってくるなど、構成が一風変わっている。それぞれの踊りもどこか中世らしい重々しさがある反面華やかさ、軽やかさには欠けているように見えた。

オサチェンコも第二幕のオデットからこの幕のオディールへと変わり身は確かにあったけれど、目を惹くという踊りではなかった。ロットバルト(見知らぬ騎士)は、これまでの兜を脱ぎ捨てスキンヘッド、怪しげな化粧で邪悪さを演出していたが、これも以前の『眠れる森の美女』のジェイソン・レイリー演じるカラボスが醸し出していた雰囲気に比べると舞台を支配するような力まではなかったようだ。

f:id:alpha_c:20120609231353j:image:left第四幕も、振り付け、演出ともにやはり一風変わっていた。ここでは『白鳥の湖』では通常耳にすることのない抑揚を抑えた音楽が中間部で流れたり、嵐の音の効果音を使ったりしていた。ただ、舞台としては暗さと重さは引き続きで、悲劇的な最後もまたやりきれなさを感じるものだった。

全体としてずいぶん辛口の感想になってしまった。だが、オデット/オディールのできは別として、とくに見慣れた演目についてそれまでの概念を覆す演出を伴った舞台の初見の感想は、得てしてこうしたものになるのかも知れない。それだけ『白鳥の湖』は、音楽、演出、振付ともに、ある程度のフィックスされたイメージがわれわれファンの中にはある、ということだろうと思う。