NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか(1)外交敗戦 孤立への道

当時の証言テープを見ると、列強は日本の満州進出等について容認していたことがわかる。

1932年、リットン調査団の報告を受けてイギリスのサイモン外相は、日本に対して満州を国際管理としてそこに日本も管理者としてあたるという妥協案を提案した。

松岡洋右国際連盟代表はこの案でいくつもりだったが、世論はこれを許さず、内田外務大臣の了承を得られなかった。

関東軍の動きを止めることは難しかった。北京の東の熱河への進出を続けようとした。1933年の政府閣議では、陸軍大臣は飽くまでも満州国の範囲内で活動すると説明し、斎藤実首相も了承せざるを得なかった。国際連盟も了承するだろうと楽観していた。

これに対し、松岡は進出をやめるべきだと外務大臣に打電する。腹八分目のところでやめておくべきであると。これを続けると国際連盟経済制裁を行うこととなってしまう。

しかし、天皇の裁可を得た関東軍の作戦をとめることはできなかった。政府は連盟を脱退すれば経済制裁もないのではないかと考えて、連盟脱退をするよう松岡に打電した。松岡は怒るが、政府の方針に従い仕方なく連盟を脱退する。

日本は希望的判断にすがり、急場しのぎのことばかり行っていた。国家的な戦略に欠けていた。短い間に首相が変わり、内閣が求心力を失い、軍部は独走してしまった。

軍は外交への介入を始める。戦前の日本軍の暗号解読力はトップレベルで、各国間のやり取りを解読していた。蒋介石の文書も解読し、蒋介石は抵抗を抑制しようとしていたにもかかわらず、敵対姿勢をとっている旨曲解して伝えた。外務省と陸軍でまったく異なる外交が行われることとなった。

これまで元老会議が調整を行っていたが、この会議に内閣が代わることとなったが、内閣が弱く、陸軍を統制できなかった。

当時、共産主義の拡大が懸案事項となり、防共外交が国家的な方針となった。有田外務大臣は、日中関係が要であると考え、防共協定を結ぼうとした。また、ポーランド、オランダ、ベルギーにも防共協定の話を持ちかけ、孤立化しないよう模索した。

この時期、ベルリン駐在大島武官はナチスドイツとの接近を行っていった。世界大恐慌で苦しむ世界をよそにドイツは経済復興を進めていた。ドイツは対ソビエトということで手を結ぶ相手を探していた。

1936年の初め、陸軍のドイツへの接近を知った外務省は危機感を抱いた。外務省は反ドイツの先鋒であるイギリスへと駐英大使の吉田茂が接近する。防共外交への協力を依頼した。しかし、イギリスは世界を割ってしまうことになるのではないかと簡単には承諾せず、防共外交は迷走を始める。

ベルリンの大島武官ははじめからイギリスが防共協定には乗ってこないだろういうことが分かっていた。しかし、この情報は外務省には伝えられなかった。

吉田は東京には協議せず、中国の開発を共同で行うようイギリスに持ちかけた。

中国は日本外交がまとまりがないことを見て、1936年10月の日中の会談では、話がつかず、逆に蒋介石ソビエトとのつながりを強めていく。1936年12月15日にソ連と提携を行う。

結局、イギリスはじめオランダ、ベルギー、ポーランドなどとの話がまとまらず、ドイツとのつながりだけが強くなっていった。日本内部の混乱こそが信頼を失わせていた。

1936年11月25日に日独防共協定が締結される。最後までドイツとの協定に反対していた有田外務大臣がこの協定に調印することとなった。各国はこの協定に猛反発した。孤立した日本は1937年7月7日に日中戦争に突入することとなった。

1940年松岡全権大使が外務大臣に就任する。そして皮肉にも反対していた日独伊三国同盟に調印することになる。