映画『J・エドガー』監督:クリント・イーストウッド、2012年

f:id:alpha_c:20120219211141j:image:w360:leftこの映画は、アメリカの司法省からFBIを創設するとともに初代長官として組織を拡大していき、大統領さえも手が出せような強い権限を背景に、自らの理想を実現しようとしたJ・エドガーの野望と人そのものを描いたものである。

エドガーは、アメリカ国内における犯罪に共産主義などの思想的な背景があると考え、国民のプロファイリング情報を管理し、指紋や状況証拠など科学的捜査法を確立することで対応しようとする。そしてもともとは州警察が対応することとされていた誘拐事件等の事案をFBIの管轄下に置くなど、リンドバーグ事件などを巧みに利用して法改正を行い、自組織の権限強化を進めていく。

一方で、連邦議会上院の公聴会で自身の検挙実績に疑いを持たれたことをきっかけに、実捜査における部下の功績を巧みに自らのものにすり替えることを恥ずかしげもなく行うようになる。そうしたでっち上げに満ちた自身の「実績」を、自叙伝にまでして広めようとする一方、身体の衰えを見せることを嫌い、医師から強壮成分の注射を毎日のように受け、強いFBIを体現する存在でありつづけようとする。また、盗聴により大統領をはじめとする要人のプライバシーを裏ファイルとして蓄積し、それを活用して政府からFBIへの口出しを許さないような体制づくりを水面下で進めていく。

映画では、独身のエドガーが母親からの強さを求める教育により育てられ、母親が死ぬまで依存心を持ち続けたこと、また自らの片腕としての副局長に対して、仕事上の関係を超えた強い愛情を持ち続けたことなどを、その人間的な側面として描いてもいる。エドガーの思想は、政府の存在を何らかの形で揺るがそうとする者、それが例え民主的な活動であったとしても、犯罪の温床となるとして徹底して排除しようとするものであり、それを全国民の情報管理という形で実現しようとした。

この映画ではたった一人の野望を背景に、強固な組織体が形成され、いまだに大きな力を持って国民が管理され続けていることの恐ろしさを描こうとしていたが、作品自体ははっきり言って冗長に感じられた。ただ、秩序を保つための法とその執行のあり方については改めて考えさせられた。たしかに秩序を保つために、エドガーが目指したような総情報管理社会という考え方は概念として成立しうる。政府でもマイナンバーのような概念を提起し、一定程度の情報については国家全体として管理しようとしている。一方で、ネットワーク社会の進展は、Googleをはじめさまざまな主体が個々人に関する膨大で細密な情報を有している状況にある。これをもし国家警察のような規制型の組織が管理するようになったとするとエドガーの社会が形成される。

しかし、根っこをたどれば、さまざまな考え方・思想があることは、社会の当然のあり方であって、これに既成社会の撹乱要因があるということで一括りに取り締まってしまうことに問題がある。これを取り締まろうとすれば明治維新のような革命も生まれないことになる。社会のあり方は、エドガーが決めるのでなく社会全体が決めるものなのだ。エドガーはたまたまFBIという組織に身をおいていた。エドガーが政府やマスコミにいて、社会全体の意思決定に力を及ぼす立場にいたとしたら、これはどうなるのか。

映画では、エドガーの特殊な心性がFBIと情報管理社会を生んだとしていたが、管理と自由、このせめぎあいはこれからの社会の永続的な課題となることは言うまでもない。