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《編集中》なぜ、こうした世界を構築できたのか

○経済社会の基本的な構造

もともと狩猟や採集で生き永らえていたヒトがこうしたさまざまなモノに囲まれた生活を送っているのか。

基層には、日々の食のためだけに暮らす生活ではなくなったということがある。それまでは日々を食いつなぐことだけが重要な課題だったが、少数の人間で多数の人間の食料を生産できるようになったという現実がある。

さまざまな必要に応じていろいろな道具を製造し、流通させる人々が生まれてきた。

モノを作るのは基本的にはヒトだった。つまりはヒトの数がそのまま生産能力を表すということになる。しかし、ヒトの手や頭脳の代わりとなるロボット=機械による生産が可能となると、投資を行うことにより何人もの労働の代替となる生産能力を機械制工業は担える力を持つようになる。この生産がヒトを雇用しての生産よりも低コストであれば選好されやすく、さらに製品を購入する市場があれば、巨額の利益を生むものとなる。

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こうした生産方式を行うにあたっては、もはや一代限りではなく永続的な組織が必要となる。そこで人格を法人として半永久的な活動を行う擬制を作り上げるようになる。

いっぽう、生産手段を機械化するためには、多額の投資が必要となる。これを貨幣というそれまでの交換手段を蓄蔵手段として用いることで実現させている。貨幣自体はそのものが価値ということではなく、太古の時代にそれがあったとしても意味をなさない。しかし、交換が行き渡った社会であればこそ、これを得たいという欲望がある(これを現実に何かに利用するのが一部で、何かに利用するのだという期待として貯めておくことが他方にある)。この欲望をエンジンに、ヒト(労働)、スキル(技術)、ツール(資本)を組み合わせて生産手段を作り出し生産を行うというドライブが生まれる。

○交通

交通は旅行や交易の手段として用いられてきた。これが整備されることにより労働力の流動的な移動が可能となった。これも道具である。

○都市

都市は、ヒトとしての経済活動が集約された場であり、その成り立ちは門前町、港町といった形でさまざまであるが、農業など食に関わる部分を経済活動のタイトな部分とすると、経済活動の弛んだ部分を担うようになってきた。機械制の生産は、ある意味で何十人、何百人の生産を機械で代替することになる。つまりは、貨幣という形での富の蓄積を生みやすい。この蓄積は法人の構成員に分配されるため、都市住民は農村住民に比較して、それがどれだけ必要であるかはいざ知らず、貨幣的な富の面では豊かになっていく。

コンピュータやネットの処理もこれまでのヒトの労働、電話や実際の経理事務や、といった労働を代替することになるため、同じように富の源泉となる。これは、生産というより、事務処理ややり取りを自動化するものである。

ただし、これら経済活動は、法人の手にわたってしまうと富の蓄積を求めることに最上の価値がおかれることとなる。そうなると、効率化の一方で、代替の元であるヒトそのものを経済活動からスポイルしてしまうことが生じてくる。

ただし、法人というヒトがいるわけではなく、社員の構成体に過ぎないわけだから、そこには効率化を最大化する経営的な知恵や決断があるわけではなく、逆に非能率化を生むためにこそ、窓際でなにもしない社員などを平気で温存するといったことも生じうる。大きくなればなるほど伸びなくなるといった現象がある。しかし、これら組織は外に対しては自らに有利な関係を維持しようとするため、下請けいじめ、つまりは利を相手方ではなく自分達へ引き寄せるといった歪んだ関係を作り上げることとなる。

現代はデフレの時代を迎えている。貨幣が不足してデフレになっているのではなく、買うという根源的な活動じたいが低調になってきている。人口が高齢化して蓄蔵されている貨幣は増えてもそれを利用して生産を行うインセンティブが生まれないのだ。

○ムダな消費の効用

それでは、消費はどうあるべきなのか。ムダな消費であってもそれは必要なのか。前提として、すべてのひとは経済活動を通じて生きているという現実がある。したがって、食料以外のあらゆるものが行き渡り、ヒトとして生きている状況が食料以外のものを購入しなくとも維持できるという前提を設けたとしよう。そうなると、貨幣により交換で食料を得られる者はよいが、それを持たない者は食料を得られなくなる。このため、何らかの経済活動はニューカマーにとって必要であるということになる。

○消費の態様

機械制生産方式は、目に見えて労働の代替を生むものである。大量生産こそがこの生産方式の特徴である。しかし、今後の経済社会はそうした産業を包含しつつ、それが徐々に生産力を落としていくことは間違いないだろう。人が減る、そしてさらに需要も減っていくということだ。

現役世代が減るのだからこれはある意味当然である。つまりは大きな生産設備を持って操業する企業ほど、日本でのウェイトを減らしていくことになる。

一方で、ブランド型の製造業については、それを求める消費者は増えていくことになるだろう。ただし、これが大きな労働力吸収力を生むかというとそれは別の話となる。

○若者の雇用

労働力としての経済社会への参加については、経済活動の海外シフト分だけ失われていくことはたしかだ。しかし、まったく雇用が失われていくことは考えにくい。最低賃金の関係で、雇用はされてもあまり給与の上がらない状態がつづくと見るべきかもしれない。

○経済成長

経済活動は必要であるが、それが成長をし続けなければならないかという話は別で、生きていくのに必要な対価が生み出せれば十分ということになる。もちろん、ここでは政府部門の活動はいやでも縮小せざるを得ない。

○政府活動

政府の活動は、政策とこれを実施する部門における活動から成り立っている。ここにおける活動は民間部門の活動で生じた所得の一部を移転させ、これを利用して事業実施することにより形成される。このため、経済活動がない状態での政府は存在し得ない。理論的には法による規制のみの状態も想定できないことはないが、守らせるという活動ができないためたんなる理論上の産物にすぎない。経済活動が最終的に冷温停止に近づくにつれ、政府活動も縮小していくこととなる。例えば以前には自動車ブームがあり、これとともに道路建設の需要も増えていった。これはお互いが両輪として支え合った結果としてある。

現実の経済は、見たとおりこれまでの蓄積によってこれを実現している。設計して作ったものではなく、アドホックに生み出されたものの集合体である。

結論からいうと、食料生産の革命と工業生産の革命、そして情報処理の革命が現代のわれわれを支えている。

○経済モデル

経済について、これを連関関係を持って説明しようとする際に的確なモデルがあるかというとなかなかそれはない。個別の理論があっても全体を把握するモデルがない。以前はマルクス資本論』のような取り組みがなされたわけだが、いまは新たな資本論が求められているとも言える。

私は、経済のfountain modelを提案したい。噴水が各所で上がっておりこれが分配されるというモデルである。貨幣の流れを水に見立てると分かりやすいのではないか。人体モデルも有効であるが、分かりやすさからいうとこちらのほうが実態に近いのではないかと思われる。

今は、噴き上げる噴水が弱まりつつあるが水自体は蓄積されているという状況ではないか。この水(金融資本、土地資本)は、たまっているところには大量に、そして無いところには徹底してない。全体として土地が湿ってきているので水の必要性(有効需要)が小さくなり、海外の乾いた土地に目が向きつつある。そして噴水設備を海外へ移転して法人は噴水を出し続けようとする。

水だけではなく、ジュース(ブランド品)を噴き出して欲しいという需要もあるが、この噴水設備は日本にはなく、海外からの噴水でまかなっている。総体として噴水を噴き上げる力が弱くなっている。

経済成長とは、この噴水がどんどん強くなっていく状況を指している。しかし、よく考えてみればそれはあり得ないのだ。定常はあっても成長し続けることはあり得ない。そして人口構造の高齢化は、定常という水準を低くしていくこととなる。

○経済政策

経済政策は、物価の安定と完全雇用である。完全雇用を実現するには、効率化を抑えるべきだが、経済主体が法人である以上それはできない。となると、新規の経済活動を後押しするか、最低限度のストック分配を行うことによってしか実現できない。ストックの多くが金融資産であることをふまえると、相続税の強化がもっとも有効な手段と考えられる。相続で必要のない資産が継承されるよりも、政府部門に移転して再分配を行うほうが効果的だからである。噴水モデルで言えば、たまっている水を雲から降らせるのだ。

これが実現すれば、実は消費自体も伸びることとなり、結果として現役世代にも寄与することとなる。

なにごとも維持管理が必要であることを考えると、コンパクト化も進めていくべきだ。こうあるべき、ということを大枠で示し、民間の活動をそちらへ向けていくようなやり方が必要だ。これは補助金でなくできれば規制でやっていきたい。