バレエ『くるみ割り人形』新国立劇場バレエ団

f:id:alpha_c:20111012155210j:image:leftくるみ割り人形』は、大人も娯しめるバレエになるか、それとも子ども向けのバレエにとどまるのか、これが舞台の成否を決めるポイントである。

この演目は、一幕はほぼ演劇に近く、二幕は伝統的なディベルティスマンが続く形式だから、親しみのある音楽であることを加えてもバレエとしては見せ場に限界を抱えている。一幕最後の雪の場面と二幕最後のグランパドドゥにどうしても観客は期待することになる。(今回の公演でも、とくにグランパドドゥが始まる場面で観客が息を飲んで見逃すまいとしている空気が感じ取れた。)

一幕の見せ場である雪の場面、ここはトータルで見て踊りが手堅い、という印象だった。新国立劇場バレエ団の持ち味の一つは統制のとれたフォーメーションだが、その持ち味は如何なく発揮していた。しかし、最近は海外のバレエ団の公演を、実演としてだけでなくYouTubeなどインターネットの媒体で見る機会も増えてきたが、これらと比べてしまうとやはり何かが違う。雪の精は、雪という無機質な存在でありながら、クララをお菓子の国へと送り出す温かみのある存在でもある。この部分を整えすぎてしまうと、無機質さが目立ってしまうのだろうか。

例えば、サンフランシスコバレエ団の公演(2008年)ではこの場面で大胆に雪を降らせている。雪の演出はバレエそのものではないけれど、そうした世界を舞台上に現出させ、雪の精と雪の女王が存分に踊っている。一幕はある意味演劇に近いが、演劇であるとすればなおさらこうした大胆な演出が効いてくる。

また、「効果のある演出」についてさらに具体的な場面に一つ触れると、一幕ではねずみと兵隊の戦いの前、夜の12時を迎えクララが小さくなる場面がある。これをロイヤルバレエ団では大人も驚くほどクリスマスツリーを巨大化させるという演出をする。しかし、今回の新国立劇場公演では、この部分も子供だましのような演出にとどまっていた。子どものころは、夜の闇にたいして恐怖感を持っていたものだ。そんな雰囲気を演出すれば大人の心にも届く舞台になる。しかし、それを「可愛らしい」だけの演出にしてしまうと、下手をすると学芸会並みになってしまいかねない。

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さて、このバレエのもう一つの見せ場となる二幕のグランパドドゥについて簡単に触れておきたい。金平糖の精を踊った小野絢子さん、細やかな部分に気持ちが届いていて上手なダンサーだと思う。あとは、日本人ダンサーとしてどこまで自己表現できるかというところに尽きると思う。吉田都さんほどの女性ダンサーがいたのだから日本人だって十分やれる。「新国立劇場の」でなく「日本の」代表的なダンサーになるためには、さらに何かを身に付ける必要がある。

最後に全体の振付について言えば、最初と最後の街の場面は、それほど効果的に機能していない、付け足し的、説明的な感じを受けた。(この演出には美に造詣の深い友人も「現実的な部分はカットして夢の場面に終始してもいいのでは」とのことでした。)この演出は「(私たちも)新宿の街頭からでもくるみ割り人形の世界に行くことができる」を表現したかったのだと思うけれど、これをやるのであれば、全体の構成まで大胆に組み換えるべきではないだろうか。(どうも最後に登場するサンタクロースを出したいためにこの舞台設定をしたように思えてならない。)

冒頭に記したように、『くるみ割り人形』は間違いなく大人向けの演目になりうるものだと思う。しかし、今回の公演ではその点では残念ながらまだまだと感じた。ただ、「花のワルツ」など、個々のダンサーのスキルの高さとフォーメーションの上手さを如何なく発揮している部分もあったことは付記しておきたい。