人間と情報

少なくとも、インターネットなどから受ける情報が人の教養に及ぼす正の効用はそれほどないはず。というのも、昔の教養人はそんな道具の持ち合わせなどなくもっぱら書物と自身の考えを深めることで幅広い教養を身に付けていた。

情報の水路の確保は、不必要なものも併せて呼び込んでしまう。間違いなく言えるのは、受け身のスタイルでは教養を身に付けるのは難しいということであり、情報の水路を確保することは、より受け身のスタイルに結び付きやすい、ということである。

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例えば、家に帰ってから、あるいは休日にテレビやインターネットにかじりついている情景を想像してほしい。結果としてはおそらく、数十分、あるいは数時間無為な時間つぶしをしているという結果しか招かないはずだ。そのあげく、妙な嫉妬をしてみたり、怪しげな言葉遣いを身に付けてしまったりしているはずだ。

これに比べ、ラジオは優れたメディアだと思う。なぜなのか。おそらく、バラエティ(父親のいう「楽屋ばなし」)は、質の悪い言葉遣いを見せることが売りなのに対し、ラジオには言葉しかなく、言葉で勝負するという昔ながらの気風が残っているせいではないだろうか。

経済も文化も、姿こそ変わりつつあれ、先代から受け継いだものである。そんななかで、考えるという行為だけは自らに帰属するものであり、ここに関しては断じて借り物に譲ってはならない。そのためにも必要で最小限の情報に絞り、またそれを良質なメディアで受けとるということが肝要なのだ。