昔のひとの筆跡

学生のとき、明治時代初期の戸籍をデータベース化する作業に当たっていた。当時の公文書はもちろん墨と筆で記載されていたわけだけれど、その筆跡が確かなものだったことが今更ながら思い返される。

当時の教育水準の高さといった一般的な言葉で括られがちだけれど、それとは別に、一つひとつの文字を記述するのに当時の人々はある「丁寧さ」をもってあたっていたことが推察される。きっと、いまのひとの感覚からするとゆっくりと一筆一筆を書き記していたのではないだろうか。

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人間はどうやら古代からそれほど大きく変わってはいない。変わったのは(変えたのは)、環境であり、利便性や快適さを実現するためのさまざまな道具を作り上げたことであり、本源的な存在としての人間そのものではない。この考察をふまえると、自身の振る舞い方に魂を(深い思慮を)込められるかどうかは、能率とはまったく別の次元にあるのではないかと推察される。

過去の人々の中に、われわれ自身や国家の存在、そして美徳などについての深い考察が汲み尽くしがたいほどにあふれているのは、それらの人々が自身の振る舞い方と深い思慮を同一化できたからではないか。逆に現代のわれわれは、さまざまな道具を使う反面そのスピードに自分を合わせようとし、そして振る舞い方を身に付けられなくなり、聞いた話をあたかも自分の考えであるかのように受け取り、実は自身は何も考えていないという状態に陥ってしまっているように思われる。

話がずいぶん拡散してしまった。けれど、昔のひとの一筆一筆には、そのひと自身が宿っていた。今のわれわれの一筆一筆は、それが宿っていない。振る舞いと思慮が同一化していない。