クローズアップ現代「岐路に立つお寺~問われる宗教の役割~」

1,500年にわたってお寺は日本人と密接なかかわりをもってきたが、現在、寺離れが進んでいる。大きな原因は墓を、寺の墓地から葬儀会社が運営する霊園へ引越しする動きである。

こんな中、宗教の原点に立ち戻って寺のあり方を見直そうという動きが出ている。

全国にお寺は76,000あり、コンビニの倍に及ぶ。しかし、多くの寺は檀家が減り、お坊さんを呼ばずに葬式を行ったり、墓が霊園に移るなどして、収入が減っており、今後の存続が危うくなっている。

一方葬儀会社では、霊園の納骨堂に墓を作ると、葬儀の費用が三割引となったり、戒名は無料となったりする特典を提供したりしている。

納骨堂を経営しているのは実は葬儀会社ではなく寺である。宗教法人でなければ納骨堂を運営できないようになっている。葬儀会社から寺は三割の取り分を得ている。

納骨堂を葬儀会社ではなく自力で資金調達して立てた寺もあったが、ピーアールなどが不足しており、億単位の負債を抱えて破産したケースもあった。

東京工業大学大学院准教授 上田紀行)墓の話ばかりで寂しい。宗教はもっと違う役割があるはずだ。アンケートをとったところ、人々は仏教には90%がいいイメージを持っているが、寺は25%、僧侶は10%しかそうしたイメージを持っていない。お寺は僧侶は仏教をやっていないのではないか。僧侶と話をしても寺の経営の話ばかりが出てくる。苦しみ多い現代社会の中で、仏教はそうした状況から救ったり支えてくれたりするものなのかどうか問われているが、お寺や僧侶はそうした方向には無関心である。ムラ社会が壊れ、葬式や法事が商品になっている。お坊さんも世襲制で、仏教を本心から信じているのかどうか。また在家もお寺に期待していない。この悪循環の成れの果てが現状である。

寺から外に飛び出して悩んでいる人の話を聞く僧侶もいる。死ではなく生の話をしたい。失業中の人に対してハローワークに掛け合ったり企業と交渉したりしている。本来、先人である道元などの僧侶はこうした取り組みをしていた。「今からいよいよ出番」だと考えている。また、自殺対策として悩む人の相談に乗っている僧侶もいる。介護に疲れ、両親を看取った人からの相談の手紙に対して「悲しみの癒えない間はがんばらないこと」などと伝えている。

(上田)こうした姿こそ本来の宗教者ではないか。行動の中に仏さんがいる。言葉だけではなく、行動が大切である。高度成長のときは、苦はどんどん少なくなるんだという考え方があったが、今はそれが増えている。それを自助努力でというのは傲慢であり、救う人が必要である。千年の伝統の中でわれわれを救ってくれる人たちがいるんだという思いを抱ければすばらしいのではないか。

■コメント

仏教には人の生を根源から見つめる視点があるが、今の寺や僧侶がこうした視点を持っているとは考えがたい。「死」は、彼らにとってビジネス(言い方は悪いが)であり、日常である。死が日常になってしまうとそれを突き詰めて考えることもなくなってしまうのでは。

たしかに現代では、リアル社会での縁は薄れ、また生活をつなぐことも困難になりつつある。自殺者が増えていることにも見られるように、問題を抱えている人は多いのだから、そうした人に向き合い、必要とされる宗教でなければならない。

しかし、実際のところ、高齢社会で亡くなる人は多くなり、寺も大きな収入を得ているのではないか、と思っていたが。たしかに訃報で見る限り寺で葬式を行う人は少ないようだ。