NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか(2)陸軍 暴走のメカニズム

陸軍の組織の問題をとりあげる。陸軍は戦前の最大の官僚組織であり、日本を戦争に引き込んだ主犯といわれる。しかし、まっしぐらに戦争に進んだのではなく、いくつかの誤算の結果として戦争に突入することとなった、というのが真実のようである。

鈴木貞一元陸軍中将の遺品に、陸軍の転機となるいくつかの場面が分かるものがあった。1920年代にすでに陸軍は組織の改造・改革に取り組んでいた。それまでは山県有朋元帥の意思のもとに動いていた。しかし、ヨーロッパに集まった若手の武官たちは、こうした体制は旧いものとして改革、刷新しようということで意見の一致を見た。「一夕会」という40人のエリート将校のグループを作り上げる。当時議会政治は党利党略によるものが中心であって、これは当てにならないと考えた。人事が重要と考え、人事局長、そして陸軍大臣への重要ポストである軍事課長、そして次々と重要ポストを一夕会のメンバーで占めていった。

人事の改革に成功したが、一夕会の一人ひとりの考え方は隔たっていた。石原莞爾のように「武力により満州を征圧する」といった過激な思想の持ち主も含まれており、現実的な永田鉄山軍事課長との間で軋轢があった。そして、石原たちは満州事変を起こすが、関東軍の上層部はこれを黙認した。

荒木陸軍大臣は永田軍事課長を更迭し、自分の息のかかった人間(皇道派)で陸軍幹部を構成する。これにたいし統制派の永田が巻き返し、荒木大臣を交代させ、永田は軍務局長に就任し、今度は逆に統制派で染め上げていく。しかし、1935年に皇道派は日本刀で永田軍務局長を殺害する。そして組織の秩序は崩壊してしまう。

1932年9月、満州事変の首謀者である板垣征四郎石原莞爾を民衆は熱狂的に迎え、二人は勲章を得た。軍は、もはや中央に相談せず独自で中国国内での行動を行うようになる。前例を作り、結果がよければよいという考え方が根付いていった。

関東軍の急激な勢力拡大に対し、これを抑えるため天津軍を増強するが、中国国内における抗日運動が強まることとなる。また天津軍の司令官もまた手柄をあげようとして発砲事件を契機として1937~1945年の日中戦争を起こすこととなる。

日中戦争が始まって2年、中国へ派遣される兵隊は60~100万人となり組織が膨張した。そして派遣軍の司令官など枢要ポストに大臣経験者などが就任する。アメリカからの抗議等もあり、参謀本部は派遣軍を縮小しようとするが、現地司令官は了承しなかった。陸軍大臣を務めた板垣征四郎までが交渉に現れ、縮小どころか増派を要求する。

アメリカは、中国への進出が縮小しないことを理由に通商条約破棄を通告する。

あいまいな指示しかできない中央と、勝手に動く出先の関係で、まったく軍の統制はきかなくなっていった。国のエリート達は、自分が所属する組織を優先していった。

1941年10月の閣議で、東条英機陸軍大臣は、中国への駐兵を訴え、内閣は総辞職して東条が総理大臣に就いた。

自分たちの行ってきた成果へのこだわりはさらなる組織の膨張を生んだ。そしてそれは太平洋戦争へとつながる道だった。