NHKスペシャル シリーズ 日米安保50年 第2回「沖縄 “平和”の代償」

沖縄県知事選挙では有力な両候補ともにアメリカ軍基地の県外移設を訴えた。その一方で東アジア情勢は緊迫しており、米軍の存在の重要性は増している。

普天間基地はアメリカの基準でも認められない危険性の高い基地である。しかし、アメリカは普天間基地の移転の拒否を表明している。普天間基地は陸海空軍と海兵隊が駐留しており、重要性が高い。

1950年代になって沖縄への集中が進み始めた。これは戦略的に重要だから、ということでは説明できない。

海兵隊はいち早く敵地に乗り込むことから「殴りこみ部隊」といわれる。戦後しばらくは岐阜や富士に海兵隊が駐留していた。第二次大戦後、海兵隊は本国へ帰還していたが、朝鮮戦争により関東や関西の米軍基地へ駐留することとなった。

ところが駐留を始めてから4年後、次々と海兵隊は本土から沖縄へ移っていった。当時のアイゼンハワー政権の文書にアメリカの思惑を記した報告書がある。1953年の内灘闘争など、1950年以降日本国内における反戦運動が高まっている状況をふまえ、行き場を失った米軍は沖縄を新天地として考え始めた。当時沖縄はアメリカの統治下にあるとともに、土地の賃料などが安かったのである。移転先の一つが辺野古であった。キャンプシュワブである。当時の辺野古でも反対運動がもちあがった。1953年には米軍兵士による6歳少女の暴行・殺害事件が起きた。このほかにも女性への暴行事件は多かった。1956年には島ぐるみ闘争という大規模な反対運動につながっていった。しかし、基地建設の動きは止まらなかった。

沖縄からの代表団が政府を訪れて鳩山一郎首相に直談判した。しかし、このころの外務省では、海兵隊の沖縄展開はやむをえないと考えていた。沖縄の施政権はアメリカにあり、深入りできないということで、本土からの沖縄展開を黙認することとなった。米軍は基地用の土地を強制収用し、反対派を力づくで排除、ブルドーザーで農地を基地に変えていった。

辺野古の受け入れをきっかけに、米軍は沖縄全域に展開していき、基地面積は1.8倍となった。海兵隊は実戦さながらの上陸訓練を行った。

佐藤栄作首相は、沖縄の本土復帰を進めたが、一方で首府の近くに外国の軍隊が駐留していることは望ましくないということで71箇所の本土の基地が移設された。

日本では1969年に、沖縄返還後もアメリカに米軍の駐留を続けるよう依頼する文書を残している。本土復帰の1年半前、政府は対策本部を作った。普天間基地は強制的に米軍が作った基地であるが、日本政府は沖縄返還前に新たに普天間基地などの土地の地主(3万8千人)と「軍用地契約」を改めて結び、アメリカに差し出すことを目論んだ。契約は難航したが、自民党政府は軍用地代を大幅に上げることで対応した。

その後振興策ということで多額の税金が沖縄に投入され、沖縄もそれに依存するようになっていった。基地経済は現在15%にものぼる。

しかし、今年行われた反対集会では、すべての市町村長、そして基地の土地を提供し続けた地主までが反対集会に参加するようになった。鳩山由紀夫首相の「最低でも県外」という言葉に期待しただけに反対運動もいっそう大きくなった。

アメリカの高官は、沖縄の米軍基地を存続するという強い意志を示し、日本政府が責任を持って行うべきであるとしている。また、日本政府も東アジア情勢を理由に沖縄の基地を存続させる意思を表明している。政府は振興策で対応するつもりだが、政府の振興策はあまり役に立たない、やはり移設を訴えたいという思いを沖縄の人々は抱いている。また、一方で基地がなくなった場合やっていけるのかという思いもあわせて持っている。