日曜美術館「ゴッホ誕生~模写が語る天才の秘密~」

ゴッホは、強烈な個性に裏付けられた自分の画風を確立するまでに、ミレーなどの巨匠や浮世絵の模写を行い続けた。学び続け、それを個性として確立した。

「種まく人」(1888)は、生涯にわたってのモチーフであり、何度も何度も描いている。この絵は、色彩はゴッホそのものであるが、身体の角度などはジャン・フランソワ・ミレーの「種まく人」(1850)を忠実にまねている。

ゴッホは幼い頃から信仰心に篤い生活を続けた。27歳になり、伝道師になろうとして炭鉱町に移住した。この時期、重い袋を担いで労働する女たちの絵を描いている。

しかし、貧しい人を救いたい、という気持ちが強すぎて教会から受け入れられない。画家へ転向する。

(仲代達也)(演劇「炎の人」でゴッホを演じている。)ゴッホは、キリストへの信仰は持ちつつ、キリスト教会に対しては疑問を抱いていたのではないか。

ゴッホは洗濯小屋で独学で絵を学び始める。手紙でミレーの絵に関しての話題が登場し、ゴッホはミレーを模写することで画家としての基礎を作ろうとする。模写を続けながらゴッホはミレーのような農民画家になることを決心する。

ミレーは生涯貧しい農民たちを見つめ、ありのままを書き続けた。ゴッホは、とりわけミレーの「晩鐘」に大きい影響を受けた。

なぜミレーを模写し続けたのか。ゴッホには捨てきれない信仰心があった。この信仰心をどうやって農民を通じて描くかということを模索していた。

32歳のゴッホは初めての大作に挑んだ。これを描くために何度も手のデッサンを行っている。この作品「じゃがいもを食べる人々」、小さなランプの明かりとテーブルを囲んでじゃがいもを分け合う農民の姿である。ミレーに導かれつつ、新しい道を歩き始めた。

(美術史家 木下長宏)ゴッホは教会から締め出されたが、文学などさまざまな勉強を熱心に行っている。この蓄積が絵に凝縮されている。ミレーのほか、模写はしなかったけれどレンブラントも尊敬している。

ゴッホはパリに移るが、そこでモネ、ルノワールなど印象派の絵に出会い、大きな影響を受け、絶賛している。とりわけ影響を受けたのがジョルジュ・スーラであった。色を混ぜるのではなく、原色の絵の具を点のように置いていく点描技法である。このころ、ゴッホがレストランを描いた作品は点描で描かれている。パリにくるまではこのような明るい絵を描いたことはなかった。

ゴッホは、スーラには影響を受け、その技法についても深く研究したが、これが自分の進む道ではないと手紙の中で述懐している。有名な「自画像」では、「点」描ではなく、「線」描で描いている。この技法により「自画像」はより生き生きとした表現となり、そのまなざしはわれわれをとらえて離さない。

(木下)スーラは科学的であり先端的であったが、ゴッホは、そうした洗練性よりもタッチの手応えにこだわった。ゴッホは対象そのものよりも対象の奥にある精神性を描こうとしてスーラの技法からは離れていった。

1888年にパリを離れアルルに移る。南仏特有の強い日差しと豊かな自然を見て絵を描いた。ここでも「種まく人」を描いている。

ゴッホはパリにいた頃、400もの浮世絵を買い集めている。どぎつい原色のおいらん、これは雑誌の表紙を模写したものである。歌川広重の傑作も模写している。降りしきる雨の中、道を急ぐ町人をゴッホは油絵で描いている。

アルルでは、明るくて強い色を使い、あまり多くの色を使わない、また構図も対象を手前に大きく置くという、浮世絵のような描き方に変わってくる。日本人が描いたこの絵の描き方こそは宗教ではないだろうか、とゴッホは考えた。ゴッホは驚異的なペースで作品を描き、代表作「ひまわり」(1888)が生み出される。これも浮世絵の影響を大きく受けている。ゴッホにしか描けない、輝くようなひまわりである。

しかし、一方でアルルでは芸術家としてともに共同生活を行っていたゴーギャンと衝突、自分の耳も切り落とし暗い精神病院に収容されることとなる。激しい発作に襲われつつ、ミレーの絵の模写を多く行った。幻覚・幻聴の中で、以前自分を救ってくれた原点であるミレーに回帰したのではないか。

死の直前、亡くなる二週間前に嵐の到来を予感させる「カラスの群れ飛ぶ麦畑」(1890)を描いた。そして、37歳で自分に銃口を向けてこの世を去った。

ゴッホは草の絵(「麦の穂」など)を多く描いている。従来のゴッホ観とは異なり、こうした研究・創作をも行っていたという側面があった。最後に描いたのは実はこのカラスの絵ではなく、草の絵であった。(木下氏本人による訂正、2回目の放送では削除されていました。)