知る楽 歴史は眠らない ニッポン 母の肖像 第2回「“良妻賢母”の光と影」

  • 子育ては母の役割という考え方が浸透したのは大正時代になってからである。この頃から、女学生には良妻賢母になることが求められた。
  • 江戸から明治になっても、子育ての状況は急速には変わらなかった。『民事慣例類集』には当時の習慣が記述されているが、子育てについては、乳母なども参加して地域の中で行われていたことがわかる。
  • しかし、明治の啓蒙知識人たちは、「良き母」像こそ近代国家の発展の礎になると考えた。こうした声を受けて、文部省は母親作りの女子教育に力を入れる。『高等女学校令』では、この「良妻賢母」という言葉が記載されている。
  • 1900年代には地方から都市へ人々が集まるようになった。その多くは農家の次男や三男で、会社員や公務員となり、高等女学校卒の女性を妻にすることが理想とされた。
  • そしてこの頃から、家にいる妻に家事・子育ての一切が任されるようになる。
  • 東京では「赤ん坊展覧会」が開催された。二歳までの赤ん坊が対象で、赤ん坊の順位付けが行われた。この展覧会で著された論集を見ると「母の手一つで」や「母性愛」という言葉を、よい子育てのあり方として女性たちが使うようになっていたことが分かる。
  • こうした考え方が浸透したことは、現代の母親たちが孤立した中で子育ての責任を負い、追い詰められているという状況を作り出すきっかけともなった。
  • 当時の女性は育児書を参考に子育てをするようになった。当時は翻訳した育児書がほとんどで日本の実態に合っていなかったが、そんな中、女子高等師範を卒業して結婚した鳩山春子が、自らの子育て経験をふまえ自分の手で著した育児書『我が子の教育』は、異例の増刷を続けた。
  • しかし経済恐慌が起こり、子育ての経済的基盤が揺らぐこととなった。そんな中、母子心中さえ行われるようなこともあった。しかしそんな悲惨なことすら世間では母性愛の表現として受け取られた。
  • 江戸、明治期の「みんなの子ども」から大正期以降の「私の子ども」という存在に変わり、母親たちは育児書頼りになっていった。それは現在の母親と共通するところがある。