日曜美術館「ドガ 光と影のエトワール」

・ ドガのバレエ作品、「エトワール」はパリ・オペラ座バレエ団のトップバレリーナの称号である。この作品はバレエ絵画の最高傑作とされている。

・ ドガの作品は、絵画としてのみならずバレエ界でも高く評価されている。腕や脚などの表現が躍動感を与えている。ドガのデッサンを見ると、描かれたバレリーナが次にどのような動作をするかが分かる。

・ ドガは1834年にパリに生まれた。祖父は銀行を起こした実業家で父は支店長、恵まれた家庭だった。法律の学校に通うが、途中から芸術を志し、ルーブルに通ってはデッサンを繰り返した。イタリア留学中は巨匠の絵画を徹底的に模写した。

・ リアルな現実を描く画家であったが、生涯のテーマであるバレエをオペラ座に見出す。オペラ座の年間シートを購入して毎日のように通った。特権階級であるブルジョアジーの座席を利用していた。

・ 「エトワール」には舞台袖に男の影が見える。ドガの時代、バレリーナには踊りよりも美しさが必要とされていた。もともとバレエは16世紀にイタリアからもたらされて宮廷で発展したものであるが、19世紀フランスは普仏戦争に負け、バレエは衰退の一途をたどった。バレリーナは貧しかった。舞台袖の男は、バレリーナを品定めするパトロンの姿である。ドガはブルジョアジーの姿を皮肉に描いた。

・ (三浦雅士)この作品「エトワール」は、瞬間的であるがすばらしい構図である。軽さ、引力を感じさせないということは、バレリーナとして最も大切なことである。フランス革命によりブルジョアジーの社会となり、お金がすべての世の中になった。家庭は女性、仕事は男性という構図が固定化した。そして、男性は見る側、女性は見られる側となった。この絵画はそうしたヒエラルヒーも描きながらもバレエの本質をきちんと描いている、そこがすごい。

・ ドガは印象派のリーダーだった。しかし、深刻な病に冒されていた。目の病気である。36歳で普仏戦争の従軍検査を受けるが、目の異常が発見された。太陽の下で長時間絵を描くことができなくなっていた。また父が借金を多く残して他界し、弟も同じ理由で自殺した。ドガは夜の街を徘徊しはじめる。室内の弱い光の下で行われるバレエは格好の対象となった。当時照明はランプであった。

・ 新たな表現方法として、油絵ではなくパステルを利用しはじめる。筆を使わずじかに手で持って書き込めるパステルは視力の落ちたドガには適していた。40代半ばには大半の絵をパステルで描くようになる。パステルの線を緻密に重ねることで女性の肌の質感などを描いている。また、ドガはカメラを利用した。当時屋内でカメラを使うことはしなかった。写真撮影にあたってはランプの光を利用することで独特の効果を得ている。このカメラで撮影した写真をもとに絵を描いている。

・ (三浦)チュチュの素材感がパステルによってきわめて実感的に表現されている。またフットライトの表現がよい。

・ 70歳代になり、光をほとんど失った。この時期の絵は色彩も形も不明瞭であり作品として完成していない。晩年は訪れた人にかんしゃくを起こしたり追い返したりしていた。そして80歳を過ぎてこの世を去る。

・ 没後のドガのアトリエ、ここに驚くべき発見があった。彫刻が沢山見つかったのである。その多くは踊る女性の姿であった。ニューヨークのクラーク美術館に所蔵されているドガの彫刻は、コルセットとチュチュを着て髪の毛が貼り付けられた、常識では考えられないものであった。この作品を発表したドガは非難の声を受け、二度と一目に触れさせなかった。モデルは貧しい家庭の少女であった。この少女など、光の当たらないバレリーナをドガは多く描いた。

・ (三浦)バレエはすばらしいと思う、しかしドガはその闇の部分も描いているため、自分としてはドガに対して愛憎半ばしていた。しかし見るうちにやはりすごいということが分かった。冷徹に対象を見てはいたが、そのモデルたちの意思、人間存在の意思も描いている。それは音楽的でもある。

・ 今年6月に、ドガの彫刻の少女を主題としたバレエがパリ・オペラ座で上演された。

■コメント

19世紀当時のフランスのバレエはどちらかというと衰退しているイメージだったが、「成熟」という水準まではいかないとしても基本的なテクニックは確立し、受け継がれていたのではないかと思われる。