歴史は眠らない 日本人の“健康” <新><全4回> 第1回「江戸時代の養生」

・ 戦国時代の武田信玄豊臣秀吉は戦争の間に温泉に良く浸かったといわれる。また徳川家康は健康に気を遣い当時としては大変な長寿であった。

・ 一般庶民の間では、江戸中期から健康に対する関心が高くなった。

・ 銅人形は中国から伝来した医術に基づくもので、表面には360箇所の穴が開いている。これはツボである。また穴どうしを結ぶ線は経絡といわれ、気がめぐっていると考えられた。気が滞りなく循環することが病気にかからなくする方法であり、もっとも重視された。気は自然界にもあり、呼吸により体内に取り入れていると考えられた。外界からの邪気=病気をはねつける力を持つ。

・ 気とは目には見えないがこの世を流れるエネルギーであり、感じ取ることはできる。森に行くと森の気を吸い込むことができる。

・ 気を遣うという言葉があるが、気が会う、気がそれる、といった「気」を使った言葉は日本人に身近なものである。

貝原益軒は有名な健康啓蒙家で、『養生訓』を死の前年にあらわした。(1713年)養生とは、心身の安定を図ることにより病を寄せ付けないことである。

・ 養生訓の一日。早朝目覚めると、養生法として足の五本の指を握り、もうひとつの手でなでさする。食事は腹八分。大根は野菜の中でもっとも上等。根と葉を味噌で煮ると良い。食後の散歩はとくに必要。庭の中を数百歩歩く。昼下がり、身体を寝かせて上を向き、両足を五寸開き、鼻から吸い口から出す。夜は床に入る前に湯で足を洗う。若いときから色欲を慎むこと。心の養生としては欲を抑え、心を平静にし気をやわらげる。益軒は養生法を実践し80過ぎまで生きた。

・ エネルギーをとり過ぎず、また浪費しない。人全体を整え、徳のある生き方をする。

・ 養生訓の実践者としては益軒の100年後の杉田玄白がいる。玄白も度を過ごさないこと、男女の行為をしすぎてはいけないことなどを著書に書き、やはり80過ぎまで生きた。庶民も養生訓をよく読んでいたようだ。

・ 益軒の健康術は、すぐに実践できてお金もかからない。貧乏でも節制して生活を楽しむことができる。

・ 現代のわれわれにとって健康という言葉より養生という言葉を大事にすべきではないか。

・ 益軒は日本酒に7種類の生薬(なつめなど)を溶かしたものを飲んでいた。これは今でも「養生訓」という名前で製造されている。