バレエ『ドン・キホーテ』東京バレエ団(東京文化会館)

ドン・キホーテ (岩波少年文庫 (506))

ドン・キホーテ (岩波少年文庫 (506))

どんなきっかけで手にとったかは忘れてしまったが『ドン・キホーテ』をつい先月読んだところである。ドン・キホーテサンチョ・パンサも大まじめながらなんと愛すべきキャラクターであることか。また、ドン・キホーテが死の間際になって騎士道物語に夢中になっていた自らを悔いる場面では、実はわれわれみなドン・キホーテと同じではないか、いまわの際で初めて自分の行ってきたことが、いかに本質から遠ざかった荒唐無稽なものだったかと悟るのかもしれないな、とも思われた。ドン・キホーテというと、「子どもの読む本」と思う人が多いかもしれないが、むしろ大人のわれわれにとってこそ教えてくれるところの大きい作品なのだと思う。

さて、バレエ版ドン・キホーテはもちろん自分にとって初めてである。ひょんなきっかけで、インターネット経由でこの夏の東京バレエ団のこの公演のチケットを譲っていただけることになり、平日ながら公演の初日に観ることができることになった。では、バレエ版ドン・キホーテはどうなのかというと、これはそのまま予習なしで楽しめる筋書きであったと思う。主役のバジル(アンドレイ・ウヴァーロフ=ボリショイ・バレエ団プリンシパル)とキトリ(ポリーナ・セミオノワ=ベルリン国立バレエ団プリンシパル)の恋愛をめぐってドン・キホーテサンチョ・パンサ、笑いものの貴族ガマーシュがどたばたを繰り広げる。見どころは多く、初見でも(とくに子どもでも)そのまま楽しめる舞台だと思う。

【今回の舞台のゲネプロ風景】

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とりわけ一幕一場の「街かど」の情景は、いかにもスペインらしい陽光、服装も赤、黄、燈などの色に満ちあふれ、踊りも軽やかだ。一方、一幕三場の「夢」の情景は、ドゥルシネア姫やドリアードの女王を中心に、クラシック・バレエの神髄のような踊り(ちょうどラ・バヤデールでいうと「影の王国」のような)が展開される。

ダンサーでは、ウヴァーロフの存在感が圧倒的だった。技巧、ジャンプやピルエットも力強いがそれ以上に舞台を支配する存在感のようなものを感じた。セミオノワも途中から踊りに柔らかみが出て非常に魅力的だったと思う。東京バレエ団のメンバーでは、メルセデスを演じた井脇幸江さん、キューピッドを演じた佐伯知香さんがとくに印象に残る。途中で闘牛士のすってんころりがあったりしてヒヤヒヤはしたものの、全体のまとまりとしては、日本を代表するバレエ団という印象が強い。

本当に華やかで分かりやすく、スターも招いての拍手喝采の舞台だった。夏休み中のせいかお子さん連れの方も見受けられ、子どもも「ブラボー」を連呼していた。(なぜか、日本人はフェッテが好きなようで、フェッテでひときわの拍手&ブラヴォーがあがる。だが、フェッテは、曲芸に近いような高度の技巧であり、これに目を奪われてばかりというのでは、本来の芸術を見に行くという目的とは少し違うような気もする。)

最後に、この舞台は長く心に残るか、というとそうでもないような気がする。

第一に、音楽そのものの水準がある。レオン・ミンクスの手になるこの音楽は、聞いていて、たしかにバレエ音楽の基本的な形を外してはいないが、「シンフォニックな重厚さ」と言えるものを欠いている。チャイコフスキーであれば『白鳥の湖』や『眠れる森の美女』のように必ず数カ所は心に深く刻まれる旋律があり、ストーリーをより深いものとして印象づける力があるが、この音楽には残念ながらそうしたものを感じさせられることがなかった。音楽が平板だとどうしても舞台中心の視点となるが、踊りだけで他の作品と差別化することは難しく、これはどこかで見たことあるよな、ということになってしまう。つまりは、演じ手ではなく演目自体が、名作と言わしめるには少々無理があるのではないか、という印象を持った。

第二に、舞台である。東京文化会館は、新国立劇場と比べるとはっきり違う。高さがなく、奥行きにも欠けている。奥行きは、舞台そのものを「本当らしく」見せられるかということに強く関連している。ここは日本では「東の雄」のような位置づけかと思うが、それにしては残念ながら寂しすぎる。また、舞台装置も新国立劇場にはかなわない。おそらくこの公演は全国各地を回ることを前提としており、そのために舞台装置を簡素にしているのではないかと思われたがどうだろう。

【 "Don Quixote" (Kitri var) Nina Ananiashvili】

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