出光美術館『ルオー大回顧展』

今日はこれまでの猛暑にかわり、雨の降る随分涼しい日だったが、最終日となるこの展覧会に行ってきた。

ルオー(1871~1958)について知っていたことといえば、宗教画家であること、ステンドグラスの手法を用いた画法であり、輪郭を濃く絵の具を厚く塗り、透明感のようなものを表現しているということくらいである。(中学生の時の美術の授業)

今回この一連の絵を見てわかることは、ルオーも人間観察を続けた人だったということである。初期の水彩の「曲馬団の娘」や油彩の「裁判官」など、無力さや愚かさといった人間の内面を絵に良く表している。こうした観察を経て、父の死や第一次世界大戦といった、生死を間近に感じる体験があり、銅版画集「ミセレーレ」や連作油彩画「受難」といった傑作を生むに至っている。

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宗教的なテーマを扱った銅版画である「ミセレーレ」は、その銅板であるがゆえの黒=闇と照らす光のコントラストが特徴である。人々の表情は沈鬱であったり、また滑稽であったり、諦めであったりと、人間を深く見つめながら、そんな人間社会における「神」の存在を描いているようである。ここにおける「神」は絶対者、光り輝く存在としてのそれではなく、隠れ、控え目で何もすることはないが、慈悲に満ちた存在である。

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より後期の連作「受難」は、シュアレスの宗教詩「受難」の挿絵として、キリストの受難までのできごとを画作としてまとめたものである。一つひとつの絵は小さいが、さきの連作ではまだ存在していた「表情」も、ルオー独特の輪郭を濃く描く技法(※)からそれほど明瞭なものではなくなっており、ただ情景だけがあるといったものである。

(※さきの「ミセレーレ」のスクレーパーを使った丹念な彩画とは異なり、オート・パート(絵具の盛り上げ)を利用した彩画となっている。)

これらの画作を通じて感じるのは、さきにも記したようなルオーの諦念のようなものである。どこか、現実社会に対する怒りと諦めのようなものがあり、これに何もしないけれど、慈愛と悲しみに満ちた視線を投げかける神という構図が感じられた。

(以上、八重洲地下街韓国料理店で記す。)