社会科学では、人及びその構成体である社会を分析対象としている。

その際に分析をしやすくするため、人を一定の型にはめて考えを始める。いわく、合理的経済人、など。法律においても考え方は同じで、自由や人権の考え方などは、教養の高い人々を前提として構築されている。

しかし、現実は、マスコミ文化の影響か、考えるのは一部のインテリで、大半の人はその受け売りをしているのみである。文化というものが深くは知性や教養そのものに立脚するものであると前提すれば、文化は衰退の途にあるのではないか。

明治の人びとが優れていた、という話。それは、自ら国の形を考え、そこへ至るための各種制度・事業を行っていたからだろう。自らの取り組みに誇りと自信をもっていたからだと思う。翻って平成20年のわれわれ、経済成長を実現し、さて次はどこへ、という方向性が見えていない。

技術の進歩にしても、目に見えるものはなく、テレビ、洗濯機、自動車といった製品に細かな付加価値をつけて、市場を守っているだけである。

権力が分散している中でこれといったまちづくりも難しい。人口が少なくなれば、おのずと実現されるものもあるとは思うが、自発的なものではなく、成長期の生きる活力とは別の次元といえるかも知れない。

加藤尚武さんの「深く考えられることの幸せ」、これが次代の文化ではないだろうか。情報がネットでたやすく手に入る現在、それを整理して、自らは「考える」ことができれば、明治の人びとの立場に立つことができ、本質的な視点から自分なりの判断を行うことができる。時間のゆとりと、社会と接触する中でさまざまなテーマを自分に課し、借り物の知識ではなく古典の視点から判断を下せるのではないか。

ヨーロッパにおける文化。昨日見たNHKの世界遺産プラハの特集。古いものを大事にし、街独自の文化を守ろうとしている。これは日本にはない、絶えざる侵攻を受けた国ならではのものだ。路地裏の古本屋。古く中世期にれっきとした活字で組まれた書籍が残っている。書籍こそは、文化そのものといえるだろう。深く思索するという行為なしには書籍は生まれない。後世の人々はこうした思索をふまえ、あらたな思索を行い、自らのうちに広がる世界を作り出していく。

千葉大の鈴木教授のいう役人にも哲学を、という話。それは、古典を大事にということでもあるだろう。

職員の能力開発については、理想形を目指しつつも、現実に職員がどのようなところでつまづいているのかをよく観察し、手を差し伸べるのが先だ。困難な状況を迎えている人に役に立つものでなければ受け入れられない。

これと同じようなことがさまざまな事業についていえるのではないか。こういった意味で制度は絶えず点検と見直しが必要であり、これを担保できる社会でなければならない。

また、現実をふまえた変革において、ここはどうしても一歩先に行かなければならないときがある。このような状況下では、個別の利害をいったん収め、さきに進むべく説得することも必要となるだろう。

生物と無生物のあいだの福岡教授のいう、「効率など長期の中では意味がないという話」、たしかにそうだが、効率により自由な時間が得られるのであればそれも重要な要素となるだろう。自分の生においては、どれだけ深く考えること、全体をとらえることができ、次代に対しては、どれだけまっとうな文化を引き継げるかが大事なことと思う。